ものづくりライターの新開です。2023年10月、福岡出張を終えた週末に山口県萩市に移動して、松陰神社に立ち寄りました。松陰神社には幕末に吉田松陰が開き、明治維新の志士を多数輩出した「松下村塾」が残されています。ここでは吉田松陰の名言に触れながら、波瀾万丈だった松陰の人生の足跡をたどることができました。

吉田松陰と門下生を祀る「松陰神社」

松陰神社には吉田松陰とその門下生が祀られている

萩市で松下村塾について学ぶのに最適な場所が、松下村塾のあった場所に建立された「松陰神社」です。神社の敷地内に松下村塾の塾舎がそのまま現存しており、2015年にはユネスコの世界遺産に登録されました。

当時の建物が現存する松下村塾

吉田松陰の生涯を超ざっくり整理

松下村塾訪問にあたり、吉田松陰について知っていることを思いだそうとしましたが、なんとも曖昧な私の記憶……。そこで敷地内にある「宝物殿至誠館」で、先に松陰の歴史をたどることにしました。ここで学んだことをざっくり整理するとこんな感じです。

  • 吉田松陰は1830年に学問好きの武士の家に生まれて学問に励み、その後萩市にある長州藩の藩校「明倫館」で師範を務めるなどした
  • 若い頃は日本全国を旅行して学識を身につけ、その後脱藩
  • ペリーの来航を知り、外国に密航したくて下田沖のペリー艦隊に乗り込むが、断られる
  • その行動が幕府にバレて「国許幽閉」(出身地で軟禁)が申し渡される
  • 萩に戻って投獄されたが、獄内で講義を行うと、近隣の若者が多数集まるように
  • 庭先の小屋を塾舎に改装して講義を続ける⇒これが後に、松陰が主宰する「松下村塾」になった
  • 松陰の時代の松下村塾で学んだ塾生には、幕末~明治維新にかけて活躍した伊藤博文、山縣有朋、高杉晋作などがいる
  • 安政の大獄の頃、松陰は藩の危険分子とみなされて再び投獄され、松下村塾は閉鎖
  • 松陰は江戸に送られ、取り調べの途中、本題とは違う要人襲撃計画を自らバラしてしまう⇒死罪が言い渡された
  • 門下生向けに「留魂禄」として自らの想いを記した後、30歳の若さで処刑された

※宝物殿至誠館でのメモ書きと松陰神社公式サイトの情報をもとに新開が整理したので、もし誤りがあったら申し訳ありません。正確には公式サイトや歴史資料、研究者の方の情報などをご参照ください。

松陰が松下村塾で教えた期間は、わずか1年半

さて、改めて松陰と松下村塾の歴史を紐解いて驚いたのが、松陰の生涯と、松下村塾の開塾期間の短さです。

吉田松陰は密度の濃い波瀾万丈の人生を送り、わずか30歳で命を落としたとのこと。そんな若さで亡くなっていたなんて知りませんでした。一方私は20代で何をしただろうか、と自分を振り返るいい機会になりました。

そして、松陰時代の松下村塾が形になったのは1857年、吉田松陰が再び投獄されたのが1858年ということで、松下村塾で松陰が教えていたのはわずか1年半程度だった事実にも衝撃を受けました。こんなに短い期間の教えが大きな影響を与え、志を継いだ塾生が後に幕末~明治維新で活躍したというのは本当に凄いと思いました。こうなってくると、松陰のどんな思想と教えが彼らに影響を与えたのか、知りたくなってきました。……私みたいな人が多いからでしょうか、境内にはこんな場所があります。

「学びの道」と吉田松陰の言葉

松陰神社の境内には「学びの道」という参道があり、吉田松陰の言葉が刻まれた25基の句碑が並んでいましたので、メモ代わりに写真を撮ってきました。そのうちの4つをここで紹介したいと思います。

学は人たる所以を学ぶなり
人は人の心あり 己は己の心あり 各々其の心を心として以て相交はる 之れを心交と謂ふ
知は行の本たり 行は知の実たり
気節行議は村塾の第一義なり 徒に書を読むのみに非ざるなり

どの言葉も深く、私などが解説することははばかられますので、ここでは句碑と言葉の紹介のみにとどめます。ご興味のある方はぜひ書籍などをご参照いただくか、ぜひ現地に行ってみてください。以上、ものづくりライター新開でした。

【公式】松陰神社
https://showin-jinja.or.jp/
〒758-0011 山口県萩市椿東1537番地

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